何でもないようなことが

ベリーダンスをかぶりつきで見て、踊り子さんの腰と胸の動きに圧倒された夜。


何だか悶々としていて、実は出かけるのも億劫な気分があったのだけれども、
いざ繰り出してみれば、いろんな知った顔がそこにあることで
しょーもないとらわれ事から解放されるものだな、と。


彼らと音楽の力の何と偉大なことよ…!(ジェットストリーム風)


毎日を大事にしよう。一足飛びしようと焦るまい。


踊り子さんの腹のうねりを見ながら、そんなことを自分に言い聞かせた夜。

安眠の夜

今年の初夢なんてのは、見たのか、見てないのかも覚えてないが、つい先日、久しぶりに「ぐっすり眠った!」という夜があった。
目覚めて、「ああ、これが深い眠りなのか」と感激した。つまり、これまで長い間、私は眠っているようで眠っていなかった。


よく眠れた理由は分かっている。単純なことだ。意識のあるうちに部屋の電灯を消した。ただそれだけの、でも決定的な安眠対策。


私は意識の上では「できることならできるだけ睡眠時間を削減したい」と考えるタイプの、根っからの貧乏症体質なのだが、体は言うことを聞かない。
本を読みながら、テレビを見ながら、時にはパソコンに向かいながら、書き物をしながらその場で眠りに落ちる特技を持っている。いわば、部屋の中の行き倒れ状態。というわけで、まあたいていの場合、電気は消さない。消すことができない。


先日はなぜ電気を消して眠れたのかと言えば、これまた簡単な仕掛けで、DIYショップで購入した電灯のスイッチひもを延長するコードを接続したからである。このコード、実はシンプルなタイプと、ご丁寧にもヒモの先端に「月に腰掛けたキティちゃん」が付いている2タイプを買い求めたのだが、今、私は気分でキティちゃんのほうを接続している。
まあ、そのこと自体は安眠とは無関係だし、もうじき40に手の届こうという人間の好奇心をそそる効果は薄いと思われる(薄くあってほしい)が、とにかく横たわって布団をかけるところまではするようになった。
で、「あ、まぶたが重くなってきたな」と思ったら、キティちゃんを引っ張る…という所作をとればいいのだ、と自分に言い聞かせた。


その夜、私は初めてキティちゃんを引っ張った。暗闇が訪れた。とはいえ、半開きにしたカーテンから、街灯の光が漏れ入ってくる。目を閉じた。


カエルの鳴き声が聴こえた。
おそらくそれは気のせいなのだろう。
でも私の耳には、かつてカエルの合唱を聞きながら眠りについた郷里の、あのおんぼろ住宅の2階の、私にあてがわれた部屋での記憶がよみがえっていたに違いない。
暗闇の中で私の意識は時空を超えていた。
私の眠りの導入と、カエルの声は深く結びついているのだと知った。安心と懐かしさと哀しさとがないまぜになった…。


キティよ、ありがとう。
でもあれから数日、すでにキミへの関心も薄れかけているのか、昨夜あたりは再び、電気も暖房もつけっぱだったんだけどね。
キティではなく,私の代わりに電気を消してくれる優しい誰か…なんてのを求めるのはやめよう。
私はカエルの声と眠ろう。

活動開始

クリスチャンの同僚に誘われて(というか請われて)某教会のホームレス支援活動に参加してきました。
手作りをにぎりを配るという取り組みで、炊き出しの小規模&アウトリーチ版というのでしょうか。
こうゆう活動は今回が初めてではないのですが、
久しぶりで何だかちょっと若い頃の自分に再開するような気持ちで臨みました。
 

参加者は信者ばかりということではなく、
大学生の女子連
かつて依存症歴のあった男性
ついこないだまで公園に寝泊まりしていた男性
など、経歴も信条もさまざまな人たちが集まっていました。


今回は日比谷公園に出向きましたが、人数はそれほど多くありませんでした。
ベテランスタッフの説明によると「いまは越冬に行っているから人が少ない」ということです。


「初めて東京に出てきたとき、路上で人が寝ているのに、まるでそこにいないかのように人が通り過ぎていくのに驚いた」
これは今回であった地方出身という女子大生の言葉。
私もまったく同じ感想を持ったのよ、とつい力を込めて答えました。
あれから10年。
路上で暮らす人、暮らさざるを得なくさせる社会に関心は持ち続けているけれど、
私は何もできず、
今回も数年前と同じように夜回りをまた始めようとしている…と軽い自己嫌悪に陥りました。


今年は、次の一歩に踏み込みたい。
まあ、この活動自体も、地道に続けていくことが重要なのだとは思うのですが。

伝言板

 こんなに毎日乗り降りしているのに、先日、ふと気付いた。地下鉄の駅にある「伝言板」。緑の板に伝言はナシ。
 確かめずにはいられなくなって駅員さんに「使われることってあるんですか?」と尋ねてみた。
 「まず、ないですね」とキッパリとした答え。何でも地下鉄営業の取り決め上、使われなくても設置しておかなくてはならないのだとか。
 「コインロッカーのほうがお客様からのニーズはあるんですけどね」と申し訳なさそうに駅員さん。
 いえいえ、こちらはむしろ、懐かしい気持ちにさせられたから興味を持ったのですが。


 待ち合わせに遅れて慌てて駅につくと、伝言板に知人からのメッセージ…なんていうのは今は昔のお話。
 わが身を振り返っても、曖昧な約束を交わしてテキトーに合流するというのがすっかり当たり前になって、生来のルーズさに一層磨きがかかっている今日このごろ…。
 何も書かれていない伝言板を見て、待ち合わせに後れた相手に白いチョークで短い伝言を書く…そんな誠実で優しい誰かの姿を想像してしまった。
 現在の日本にあっては、絶滅危惧種。日本人全体が、身近な人たちが、そして私自身が失ってしまったものへのノスタルジー的な感慨、反省が押し寄せる。


 利便性と人への思いやりのこころは引き換えなのかしら。必ずしもそうではないと信じたいけれど。
 ああ、用立つことの少なくなった伝言板。時代の戒めとして、まだそこにいて、必要とする誰かを待っていてほしい。
 今日こそはメッセージが残されているのではないかと、今日も慌しい改札の波の中から、サッと横目に盗み見る。


 メリークリスマス。

雲がマンガみたいに

買い物をしに近所をほらほらと歩いていると、
雲がマンガみたいに美しかった。
絵筆で画面をザザッと汚したみたいな横に
彼岸花か蓮を象ったかのような雲。
見ようによっては、千手観音の手のようにも。
空を見上げ、歩いては見上げ、図書館に行って出てきては見上げ。
だんだん陽が傾き、雲の向こうでオレンジにビカーと光っているのを見ると切なくなった。

椿が咲いていたり、ざくろだろうか実がなっていたり、草や冬の匂いがしたり。
近所のつれづれ散歩とバカにできない。
1人の城(ボロアパートの一室)を一歩出たとたん、いろんな感覚を刺激するものに満ちあふれているもんだ、とひっそり感動した。


そういう身近な発見を大事にしたい、丁寧に生活してみたい、、、という欲求に、今日はにわかに見舞われたわけだが、
さもありなん、昨夜の遊びに疲れていたからだ。
同僚の結婚祝いをしていたら、途中で新郎も現れ、お座敷カラオケでリズムをとる姿に「素質がある(何の?)」と見込まれ,六本木の80年代ダンスミュージックを歌い手&踊り子さんが生でステージングする店へ。
踊りましたよ。踊りましたとも。
酒の勢いでタクって帰ったりして、家計の火の手がますます勢いを増す事態に。
今日目覚めたのは午後0時。
あまりの脱力に、しかくいにかくがまあるくおさめまっせ、見て、ウェルかめ見て,ニュース見て、坂の上の雲2回目見てそんでようやくリハビリのために外へ出かけたというわけ。

坂の上…を見てると、もっと日々の生活(特に家事)を丁寧に、落ち着きと愛着をもって行えば、
生活の背筋がピンとのびるのではないだろうかと。

1人で暮らしているからこそ、そういうの、大事では?と思う。


いやいや、そこそこいい日でした。のんびりしたよ。久々に。

男おひとりさま

「男おひとりさま道」を読了。
基本的に「おひとりさまの老後」と同じトーン。
私の周辺にいる30代男おひとりさまたちに回し読みさせようと思う。


この人(ウエノさん)の本を私が読み続けるのは、
根っこに家族(親)に対する愛憎と思想がぴったり重なるからだと思う。
怨念は、そのテーマを追う続ける最大の原動力になる。


あとがきにあった一文の「男」と「女」を入れ替えてみる。


「カネでも地位でもフェロモンでも男性を釣れないとなれば、最後に残るのは人間的な魅力だけ。
それも男性をおびやかさない『かわいげ』だ」


う〜ん、真理だ。

つれづれ

久しぶりにジョギング。おそろしくいい天気。
透き透った午前の陽光が身体に気持ちがよい。


午後3時。小田急線。
日差しの強さは変わらないのに、というかますます強くなっているのに
どこがどうとうまく言えないけれど、明らかに翳りを含んでいて。


これが1日。これが「人生」かあ、、、なんて、電車の窓から眺めつつ思ったり何かして。


登山で言えば、上りより下りがキツいなんて言うけど,
あれは身体的なことはもちろん、
頂上という目指すべき分かりやすい目標がもうないという
精神的なキツさが大きいんだろうなあ、などと。


最近、そんなふうに考えてしまう。おトシごろです。


と、思えば、久々のジョグによる軽い疲労が心地よくて
目標立てして、走り込んでみたくなる。
東京マラソンは外れたようなので、別の大会のハーフにでも申し込んでみるか…?


ボリス・ヴィアンの詩集を図書館のリサイクルコーナーでゲットした。
もうけた気分。
この本を読んで、宇宙へゆきたい。